Orchestra "Do Svidanya"

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ショスタコーヴィチの基礎知識


SCHOSTAKOVICHの基礎知識



ショスタコーヴィチの生涯


 作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチは1906年、ペトログラード(現在のペテルスブルク)生まれ(1975年没)。

 スターリン時代のソ連に生き、「大粛清」の恐怖と闘いながらも、15の交響曲の他、協奏曲、室内楽、オペラと多数の作品を残す。多くの作品で、彼が扱ったテーマは「死の恐怖」であり、「自由を奪われた人民の苦悩」であった。
 1931年、オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』がプラウダ(ソ連共産党機関誌)誌面で批判され「人民の敵」というレッテルを貼られるが、社会主義リアリズムに立って『交響曲第5番』を作曲、名誉を回復した。1948年にも「ジダーノフ批判」(言論統制キャンペーン)という苦難が降りかかるが、カンタータ『森の歌』(スターリンの植林政策を賛美するゴマスリ作品)を作曲して、名誉回復。

 こうしたいきさつから、「ショスタコーヴィチ=共産党に従順な共産主義者」と信じられてきたが、1979年に出版された書物『ショスタコーヴィチの証言』(音楽学者ソロモン・ヴォルコフ編)では、彼がスターリン時代のソ連においていかに苦悩し、「己を捨てて」作曲活動を続けてきたかが、語られている。つまり彼は、表向きは「体制派」だったが、実際は逆のスタンスをとり続けながら、ソ連の体制を批判していたのである。

『ショスタコーヴィチの証言』の中で、ショスタコーヴィチは指揮者・ムラヴィンスキーのことをこう語っている。

「…私の最大の理解者を自負していたムラヴィンスキーが、私の音楽を理解していないのを知って、私は愕然とした。私が、交響曲第5番の終楽章で歓喜のフィナーレを書こうとしたが、できなかった、と彼は思っていたのである。私は『歓喜のフィナーレ』など考えたこともないのだ。どんな歓喜があると言うのだ。あの曲の終楽章は『強制された歓喜』なのだ。『おまえの仕事は喜ぶことだ』と命令され、『そうだ、おれたちの仕事は喜ぶことなのだ』とつぶやきながら行進を始めるようなものなのだ…」

 ただし、『ショスタコーヴィチの証言』は、従来までのショスタコーヴィチの評価とあまりにかけ離れていたため、出版当初から「偽書ではないか?」という疑いが持たれており、謎は深まるばかりである。息子マキシム・ショスタコーヴィチ(ピアニスト・後に指揮者に転向してアメリカに亡命)は、この『証言』について、「これはショスタコーヴィチの書物ではなく、ショスタコーヴィチに関する書物であるが、彼の生きた時代の状況を正確に反映している」と語っている。


■そもそも、「DSCH」とは何か?

ショスタコーヴィチの作品では、交響曲第10番他で、このモチーフが使用されている。