ショスタコーヴィチの教え子達

菊地@外渉(第5、6回会報より)


目次

  • オレスト・エヴラーホフ
  • オペラ「山椒魚戦争」でデビューの作曲家、ウスペンスキー
  • 著名人たちの肉親:ハチャトゥリアン、サリヤン、トルストイ
  • ガリーナ・ウストヴォリスカヤ


  • オレスト・エヴラーホフのこと

     1937年、ショスタコーヴィチはレニングラード音楽院の作曲及び管弦楽法専攻者の教授として着任しましたが、最初の生徒はゲオルギー・スヴィドフとオレスト・エヴラーホフの二人しかいませんでした。
    スヴィドフは後年楽界の実力者として君臨しますが、エヴラーホフは終生世の注目を浴びることがありませんでした。しかし私たちはエヴラーホフが常にショスタコーヴィチの深い信頼と愛情に支えられていたことを、いくつかのエピソードによって知ることができます。


     エヴラーホフの後輩でとても有能だったヴェニアミン・フレイシマンはチェーホフの小説に基づくオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」を未完のままに戦死しました。当時クイブィシェフに疎開中のショスタコーヴィチからこのオペラの楽譜の保管を依頼されたのは、重病の母親と共にレニングラードに滞留していたエヴラーホフでした。このオペラを初めて録音したロジェストベンスキーも、フレイシマンの才能が後世に伝えられた背景に、フレイシマン以上に無名のエヴラーホフがいたことを隠しはしませんでした。


     5年ほど前に来日した最も若い教え子の一人、ボリス・チシチェンコは「わが師ショスタコーヴィチを語る」というレクチャーの中でとても感動的な話をしてくれました。エヴラーホフが腎臓結核に罹った時のことです。当時エヴラーホフは学生結婚をしたばかりでしかも無一文でした。そして他の生徒も皆お金が無い。どうしたものか。ショスタコーヴィチは「よし、私が援助を要請しましょう」と言い、間もなく彼が持ってきたお金でエヴラーホフは充分にリハビリをし、恢復しました。ところで後になって作曲家同盟の幹部や他の人に聞いてみたところ、ショスタコーヴィチが援助を要請しに現れた形跡が全くありません。生徒たちはショスタコーヴィチが自分のお金をエヴラーホフのために出したことを知ったのでした。私のヒヤリング能力には問題がありますが、チシチェンコさんが恩師について「彼はその存在自体が愛でした」と語ったように記憶しています。これは本当にその通りだと思いました。

     1965年、ショスタコーヴィチが国内外での自作の上演の立ち会いを控えて多忙だったさ中、エヴラーホフの第2交響曲の初演が作曲家センターでささやかに行われました。過密なスケジュールを縫って恩師がかつての教え子の演奏会に出席したことは言うまでもありません。


    *オレスト・エヴラーホフ(1912-1973) プロフィール
     レニングラード音楽学校でリャザノフ、ユーヂンに学ぶ。1936年同校卒業後レニングラード音楽院に入学し、ショスタコーヴィチのもとで研鑽を積む。在学中に発表したピアノ協奏曲は出世作となる。1941年卒業。1947年には同音楽院のスタッフとなり,さらに1963年には教授となる。主な門下生としてアンドレイ・ペトロフ、プリゴジン、セルゲイ・スロムニスキーそしてチシチェンコが挙げられる(すべて著名人)。また著書として「作曲家育成の諸問題」がある。

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    オペラ「山椒魚戦争」でデビューの作曲家、ウスペンスキー

     「ショスタコーヴィチは非常に几帳面な人で、それは食事をとる時間に関しても徹底していました。彼は毎日午前9時、午後2時、そして午後7時に時間通り食堂に現れて食事を済ませていました。食堂にいた人たちは彼がやってくるのを見て時計を合わせていたほどです。」これはショスタコーヴィチの最も若い教え子の一人であるヴラヂスラフ・ウスペンスキーが東京外国語大学の講義で披露した恩師の思い出話のひとコマです。1967年に彼が発表した修士課程修了の提出作品、オペラ「山椒魚戦争」は師の絶賛を受けたと言います。チェコの大ジャーナリスト、カレル・チャペックの有名なSF小説が原作です。「ショスタコーヴィチは自身もチャペックの小説“母親”をオペラ化することを考えていたようで、それが私の創作に対するいっそうの賞賛につながったようです。」とウスペンスキーさん。「彼は私の作品の初演にはいつも来てくれました。また私の誕生日も記憶していて、毎年その日になると必ずお祝いの言葉を述べてくれたのです。」ショスタコーヴィチの教え子たちに対する思いやりは人並みはずれていたようです。


     ゲスト出演が終了してリラックスしたウスペンスキーさんを囲んで、小さなサイン会が始まりました。私は彼の管弦楽曲のスコアを持っていたので、この機会にと(これ見よがしに)習慣にないサインをしてもらいました。思いがけなく自作のスコアを取り出した私にウスペンスキーさんは喜びの表情を見せてくれました。これで少しはロシアに関わった甲斐があったというものです。
    そしてロシア語科の亀山教授をはじめ私たち有志一同は懇親会会場へと向かいました。可憐な女学生に囲まれてご満悦のウスペンスキーさんは、パリで買ったという見事なネクタイが似合うおしゃれな普通のおじさんでした。「何でも質問したいことがあったらどうぞ。」ということだったので、彼と同じショスタコーヴィチの門下生についてのコメントを求めました。「私の同期にはワヂム・ビベルガン、ゲンナヂー・ベロフ、アレクサンドル・ムナツァカニアン、ヴャチェスラフ・ナゴヴィツィンがいます。中でもムナツァカニアンは抜きん出た存在で、作品が少ないのが残念です。」さらに大兄弟子にあたるゲオルギー・スヴィリドフについて。「スヴィリドフは天才的な作曲家です。人は彼のことを悪く言いますが、私は彼とよい関係にあります。」
    ウスペンスキーさんに作曲を志すきっかけを与えたのはカバレフスキーだそうです。彼はことのほかこの作曲家を尊敬しているらしく、その語り口はショスタコーヴィチへの尊敬を上回るかのようでした。
     同じ門下生でも、本当にショスタコーヴィチの教え子たちは多彩です。皆が皆仲が良い訳ではなく、それぞれの道を選んで方々に散らばっています。ショスタコーヴィチが自分のコピーではなく、新しい世代の独立した作曲家たちを育てたことは彼の偉大な業績の一つだと言えましょう。
    *ヴラヂスラフ・ウスペンスキー(1937〜) プロフィールレニングラード音楽院でアラポフに学び、1962年に卒業。その後ショスタコーヴィチのもとで研鑽を積み、レニングラード音楽院のスタッフとなるが、現在はサンクトペテルブルクの作曲家同盟の指導的地位にある。ポップス調で書かれたエレクトリック・ギター協奏曲、弦楽四重奏曲・協奏曲・交響曲の三要素を混合した「弦楽と打楽器のための音楽」、ジャズ・グループのための「オブセッションズ」等特異なスタイルの作品を書いている。

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    著名人たちの肉親:ハチャトゥリアン、サリヤン、トルストイ

     全く興味本位な話ですが、ショスタコーヴィチの教え子たちの中には理由あってか著名人の肉親が3人もいます。
     その一人、カレン・ハチャトゥリアンは1920年モスクワ生まれのアルメニア人。父スレンは演劇界で名を成した人で、有名な作曲家アラム・ハチャトゥリアンの実のお兄さんです。カレンは叔父アラムの激励により1938年モスクワ音楽院に入学しましたが、第2次大戦中は軍隊で歌と踊りのアンサンブルの一員として活躍し、ショスタコーヴィチに作曲を学ぶのは戦後音楽院に復帰してからのことでした。彼はソマリアの国歌の作曲者であり、またヴァイオリン・ソナタはハイフェッツの愛奏曲の一つでした。さらに日本でも何度となく流れたモスクワ・オリンピックのテーマ曲もカレンの手によるものだそうです。カレンはショスタコーヴィチ門下ではただ一人日本で楽譜が出版されている(全音より)作曲家です。
     続いてガザル・サリヤンは1920年ロストフ生まれの、同じくアルメニア人。高名な画家マルティロス・サリヤン(美術方面の人なら誰でも知っている)の息子で、エレヴァン音楽院とグネーシン音楽院で学んだ後、モスクワ音楽院でショスタコーヴィチの指導を受けました。音楽院卒業後はエレヴァン音楽院で教鞭をとり、マンスリアン、テルテリアンなどの有能な後進を育てています。ガザルが父の創作に感銘を受けて書いた交響素描「アルメニア」は代表作で、先頃やっとCDがリリースされましたが(ASVレーベルより)、作曲者は惜しくもその前に亡くなりました。ちなみに教え子のマンスリアンは現在アルメニアを代表する現代音楽の作曲家で、年々評価が高まっています。またテルテリアンはすでに故人ですが、オペラ「地震」や奇抜な発想の交響曲はヨーロッパの楽界に衝撃を与えました。
     最後にドミトリー・トルストイ。1923年ベルリン生まれのロシア人。「ピョートル一世」などで知られる作家アレクセイ・トルストイ(「戦争と平和」のレフ・トルストイではなく)の息子です。モスクワ音楽院とレニングラード音楽院で学んだ後、ショスタコーヴィチのもとで研鑽を積みました。プーシキン原作のテレビ放映用オペラ「大尉の娘」などを作曲していますが、比較的多くの作品が出版されていて、ソビエト時代は作曲家としては恵まれていたようです。今はどうしているのか、おそらく地道に音楽院で後進指導にあたっているのでしょう。
     3人ともショスタコーヴィチの熱心な崇拝者というイメージはなく、何気なく通り過ぎていった感じです。それゆえあの「第5」でソビエト楽界の頂点に立った大作曲家の元に自分の息子ないし甥を通わせたいという、それぞれの肉親の強い希望があったことが容易に想像できます。

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    ガリーナ・ウストヴォリスカヤ

     「ごらん空飛ぶ円盤だ。あれにも人が乗っているんだよ。」これはショスタコーヴィチがレニングラード音楽院の女生徒ウストヴォリスカヤとデートしている時にもらした言葉だそうです。近年音楽学者ヘントワの著作「驚くべきショスタコーヴィチ」が発表され、この驚くべき才能を持つ教え子とのロマンスが広く知られるようになりました。オラトリオ「森の歌」初演終了後、彼女のもとにあらわれたショスタコーヴィチが枕に顔を突っ伏して泣いた等大作曲家の人間的な側面を浮き彫りにした話題の本で、昨年邦訳も出ました。
     ショスタコーヴィチのプロポーズを「これ以上あなたの影響を受けたくない」と断ってしまったウストヴォリスカヤは変わり者で通っていて、音楽の方もあまりに突飛なためにソビエト時代は完全に無視されました。例として彼女の交響曲第4番はメゾ・ソプラノ、トランペット、ピアノ、タム・タムの4者で演奏される、約8分の作品です。
     しかしながらウストヴォリスカヤはショスタコーヴィチの教え子たちの中では録音の数が増えている作曲家なのです。現在6曲あるピアノ・ソナタは何人ものピアニストによって録音が行われていて、現代ピアノ曲の新方向を示す重要なものとなっています。また1949年作曲のクラリネット三重奏曲はショスタコーヴィチのいくつかの作品で主題が引用されていて、聴いてみれば「あれか」という人もいるかと思います。
     権威ある音楽学者に「デクラメーションの扱い方に関してはムソルグスキーに匹敵する」と言わしめただけに、ロシア土着の音楽言語を基礎とした強烈な音楽には何か人をじっとさせておかない迫力が感じられます。しかしこの天才的な女性は現在とても貧しい生活をしていると聞きました。彼女はこう言ったそうです。「もし“女性作曲家音楽祭”のような演奏会があったとすればそれは屈辱以外の何物でもない」と。ボロディンに端を発するフェミニズムの国ロシアに特有のたくましい女性像がここにあります。
    *ガリーナ・ウストヴォリスカヤ プロフィール
     1919年(?)ペトログラード生まれ。レニングラード音楽院でショスタコーヴィチとシテインベルクに師事。音楽院卒業後もショスタコーヴィチのもとで研鑽を積み、通算8年師事した。「八重奏曲」は師の絶賛を受けたが、ソビエト時代は冷遇され、音楽院での教育活動が中心となっていた。主な教え子としてクラフチェンコ、チシチェンコ、ヴェセロフがいる。現在独シコルスキー社で主要な作品のほとんどが出版されている。

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