偽書「塩下幸一の証言」
白川悟志:創作



序:日本人に生まれ変わって

 俺の名は塩下幸一(シオシタコウイチ)。齢95。生まれは帝政ロシアの首都ペテログラード、「ピョートル大帝の城」っていう意味だ。俺は、1975年にモスクワの病院で筋肉が麻痺していく病気で死んだことになってるけど、ほら、奥州平泉で死んだことになってる源義経は実は大陸に渡ってジンギス汗になったとか、去年テレビで見たところでは、執権時宗に討たれたはずの北条時輔がモンゴル帝国で暮らしてたとか、そのテの生まれ変わり伝説が好きな日本でなら俺もまだ生きられると思い、こうして今は日本人としてひっそりと暮らしてる。

 そういえば、アイツも同じことを言ってたけど、どうしてるだろう。そうそう、この間、蜂矢鳥庵(ハチヤトリアン)と名乗る百歳近いギョロ目のジジイが原宿で刀振り回しながら踊ってて銃刀法違反の現行犯で逮捕されたとかニュースで言ってたけど、アイツのことかなー。ま、いいや。逮捕っつったって、昔いた所とちがって、公正な裁判と憲法の枠内で定められた刑罰法規によって人権は保障されるんだから、いつかシャバに出てこられるだろう。

そうそう、昨日、渋谷のタワーレコードに行ったら、俺のコーナーの所に、オーケストラ・ダスビダーニャとかいう素人のオケが俺の交響曲2番と3番を演奏するからCD買って予習しとけって書いてあるのを見つけたんだ。2番と3番だぜ。知ってる? 俺がまだソ連にいた頃、教え子でマブダチのロストロポーヴィチがいつか俺のフェスティバルを開きたいって嬉しいことを言ってくれちゃったときも、「交響曲を演奏するなら4番以降にしてくれ」ってクギを刺したくらいのもんだ。「レーニン万歳」とか「社会主義よ永遠なれ」とか、あとから思えば、よくあんな絵空事みたいな詩を交響曲にできたなと自分で笑っちゃうよ。

まぁ、それは置いといて、早速このダスビダーニャとかいうオケのホームページを見てみたら、なんと俺の曲ばっかやってくれてんじゃん。いいオケだね。今度は、2番3番の他に交響詩『十月』もやるんだって。“革命プロ”を組むなんて、ノーベル賞もんだよ。何々? 合唱団員募集中か。でも、俺はあんな歌詞、歌いたくないね。絶対にゴメンだよ。


第1章:哀愁漂う10月への讃歌
 −交響詩『十月』−

交響詩『十月』──俺の作品の中でもあまり知られてない曲だ。そもそも俺は単一楽章形式の管弦楽曲はあまり書かなかったね。まして、「交響詩」という形式で書いたのは『十月』1曲だけだよ。俺は曲書くときにはいつも“ドラマ性”というものを意識してたから、純器楽曲の単品を書くのは俺の流儀じゃなかったんだ。でも、この交響詩『十月』、い〜い曲だぜ、我ながら。保証するよ。

実は俺、映画音楽もいっぱい書いてたって、知ってた? ちょうど5番を書いてスターリンの野郎にしっぽ振っといた後だったかな、『ヴォロチャーエフ砦の日々』っていう革命義勇兵を主人公にした映画の音楽を担当したことがあったんだけど、結局その映画は公開されずにお蔵入りになったんだ。理由は覚えてないけど、まぁ、あの頃はお偉方の気分次第で、やれ反革命的だの、やれ堕落した西側指向だの、そう思われた作品は即お蔵入り。へたすりゃ、それを作った奴は逮捕されて二度と出てこられなくなる。「人民の敵」とかいうレッテル貼られてね。いやぁ、俺もけっこうやばい橋渡ったよ。ま、俺はココが一枚うわてだったからうまく切り抜けてきたけどさ。ほら、例の「ショスタコーヴィチの二重言語手法」ってやつさ。

おっと、話が脱線しちゃったな。なんで映画の話を出したかっていうと、こういうことなんだ。俺が61のとき、世間は革命50周年でお国を挙げての万歳イヤーだったんだけど、例によって、俺は記念式典のための曲を書かされることになった。俺は公言したね。「祖国への誇り、その偉業への喜び」を大作にまとめるってね。こう言っときゃお偉方は勝手にいいように解釈して喜んでくれるんだよ。俺は、「“ソヴィエト社会主義共和国連邦”への誇り、“社会主義秩序建設”への喜び」とは一言も言ってないけど、やつらにゃそう聞こえるんだな。もっとも、大作を書けるかどうかは自信なかったけど、そこは歳も歳だから、体調を壊したとでも言えば恰好はつくわな。

そんなある日、──やっと映画の話につながるんだけど──例の『ヴォロチャーエフ砦の日々』を復活上演するからその試写会に来いっていう知らせが来たんだ。制作からなんと30年ぶりのことだよ。俺は、自分が担当した音楽と再会するために試写会に出かけていったね。いやぁ懐かしかったな。映画の中で義勇兵が歌う歌も俺が作ったんだけど、それ聞いたとき、ビビビッて来たね。新作のインスピレーションが湧いたんだ。俺はその場で五線紙広げて書き始めた。いつもそうなんだけど、俺は書きだしたら速攻だ。終止線目指してまっしぐら。1時間越える交響曲だって3ヶ月で書いてきた。作曲家は書いてなんぼ、それがプロっていうもんだよ。

曲はゆっくりした序奏で始まって、やがてテンポが速くなってメインテーマが現れる。あとはいつものハリケーン・サウンドだ。吠えまくる金管に機関銃のような打楽器の連打、いかにも革命って感じだぜ。それが静まると、いよいよ俺がビビビッて感じた「義勇兵の歌」の登場だ。クラリネットっていう黒っぽい縦笛が吹くんだけど、どこか男の哀愁を感じさせるかっこいいテーマだぜ。

社会主義革命が成功したら世界が平和で自由になるって、ロシア人はみんなそう信じてたのに、気がつきゃたくさんのダチが逮捕されたり処刑されたりして、俺も俺自身や家族を守るために国家の忠実な飼い犬のフリして生きなきゃならなくなってた。さっきはココがいいから二重言語手法で生きのびてきたって自慢したけどさ、ハッキリ言って辛いぜ。(←間違えても「からいぜ」って読むなよ。今泣かせ所なんだから)。そんな仮面人生を送ってきた初老の男が哀愁漂わせないほうがおかしいってなもんだ。

ダスビのホームページで読んだんだけど、俺の曲のタイトルを日本語でどう書くかってことを話し合ったんだって? 『十月』と『十月革命』のどっちがいいかって。物好きだね。でも、そういうこだわりって嫌いじゃないよ。俺はロシア語で『アクチャーブリ』、英語で言えば「October 」、つまり「十月」とタイトリングしたんだけど、なるほど、巷の露和辞典を見ると、ロシア語の「アクチャーブリ」には「十月革命」という意味もあるって書いてあるんだな。じゃあ交響詩『十月革命』でいいじゃん、実際そう書いてある国内盤のCDもあるんだし、ってことになりそうなんだけど、このダスビのやつら、俺が『アクチャーブリスカヤ レバリューチヤ』(October revolution)とはしなかったそのココロに近づこうとしたんだな。例えば、あくまでも例えば、だよ。俺が公言した「祖国への誇り、その偉業への喜び」っていうセリフを、「ロシアの大地への誇り、ひたすら堪え抜いてこられたことへの喜び」ってな意味に捉える、とかね。要するに、なんで俺が哀愁をぷんぷん漂わせるオヤジになっちゃったかっていう、その辺のナニがこの交響詩のココロ、かも知れないっていうわけだ。

まぁ、この曲で何を表したのかっていうことを、俺はベラベラしゃべるつもりはないね。それはダスビの奴らやダスビの演奏を聴く客人たちが自由に想像すればいいことだ。だってそうだろう。言葉で説明できてしまうんなら、音楽なんて要らないんだよ。とにかく能書きはどうでもいいから、ちゃんと演奏しろよって言いたいね、俺的には。それだけだよ。


第2章:狂乱する27声部
 −交響曲第2番『十月革命に捧ぐ』−

すっかり哀愁漂わせるオヤジになっちゃったわけだけど、若い頃はそうでもなかったんだぜ。むしろ、今まで誰も書かなかったような新しい音楽をどんどん書いて、世界中をアッと言わせ続けてやろうと野心に燃えてたもんよ。そんな時代に書いたのが2番と3番だ。

おれが2番3番を書いた頃ってのは、十月革命でソヴィエト政権が誕生して間もない頃で、芸術界は「ロシア・アバンギャルド」って呼ばれる時代を迎えてた。ついでに、俺の生まれ故郷は「ピョートル大帝の城」から「レーニンの城」、つまりレニングラードっていう名前に変わった。とにかく世の中全体が自由の熱気冷めやらぬって感じでね、芸術家どもは競って斬新な作品を作り出してたんだ。

俺は弱冠19歳で交響曲第1番を書いた。レニングラード音学院の卒業作品だったんだけど、それが大当たり。俺はセンセーショナルなデビューを果たしたね。モーツァルトの再来、とか言われてさ。そんな俺様が世のアバンギャルドの波に乗り遅れるわけにはいかないさ。1番が大成功だったって言っても、やっぱ卒業がかかってたからな、俺的にはちょっと抑えめに書いたんだ。その反動もあってね、もっと斬新なのを書きたいって思ってたところに、当局から革命10周年を記念する曲を書くようにと依頼が来た。俺が21のときだ。

俺は張り切ったね。まず作品の中身として、俺は、「苦痛と圧迫」の中にいた労働者たちが「レーニン」という偉大なリーダーに導かれて立ち上がり、「闘争」の末に「勝利」を得た、っていうドラマを書こうと思った。そこで、曲のフィナーレには合唱を入れて、ベズィメンスキーっていう詩人の革命詩を歌わせることにした。やっぱハデにいかなきゃね。

俺にとって大事だったのは、とにかくアッと驚くような斬新なサウンドを作ることだった。「苦痛と圧迫」とか「闘争」とか、何か混沌としたサウンドを作るために、俺はものすごいことを思いついた。「対位法」っていう作曲の技があってね、素人に分かりやすく説明すると、2つ以上のパートがそれぞれ独立したメロディーを同時に演奏して、それがきれいに絡み合うというかハモるというか、まぁそういうテクニックだと思ってくれればいいよ。ほら、最初の人が「静かな湖畔の森の陰から」と歌ったら、次の人が後から「静かな湖畔の…」と入ってきて、また次の人が…っていうのを知ってるだろ。ああいう輪唱のことを横文字で「カノン」って言うんだけど、あれも対位法の一種なんだ。俺はその対位法を極端な形で応用したんだよ。普通の対位法ってのは、例えば弦楽器と木管楽器とか、高音と中音と低音とか、そういう2つか3つくらいのちがうグループ間で対位するもんなんだけど、俺が考えたのは、オーケストラの全パートがそれぞれちがう動きで絡み合うんだ。弦楽器4パート、木管9、金管11、打楽器3の計27パートが、それぞれ何の共通性も脈絡もなく、ただテンポだけを共有して進むんだ。俺はこれを「ウルトラ対位法」って名付けたね。このウルトラ対位法は、まずバイオリンのソロで始まるんだけど、すぐにクラリネットとファゴットが1本ずつ加わって脈絡のない3重奏になる。そのうち楽器が1本ずつ、やっぱり何の脈絡もないメロディーで入ってきて、急速に4重奏、5重奏…と増殖していって、それでしまいにゃ27重奏になるんだ。曲の中間辺りに出てくるから、絶対に聞き逃さないでくれよ。

そしてもう一つ聞き逃してほしくないのが、──これは聞き逃せっていうほうが無理なんだけど──曲の後半に3回出てくる工場のサイレン。これは俺の知り合いからのアイデアなんだけどね、「労働者の勝利」っていうものを工場のサイレンの音で表そうとしたんだよ。俺は知り合いのアドバイスを速攻で頂戴して、いろんな工場に行って実際にサイレンを聴いて回ったもんだ。工場のオッチャンたちからは、このガキゃサイレン聴いて何がおもろいねんって思われただろうけど、オッチャンたちもこの曲を聴けば泣いて喜ぶこと請け合いだね、絶対に。実際のとこ、この曲は十月革命を記念する最優秀オーケストラ作品として賞をもらったんだ。すごいだろ。

ただ、俺的には、そんなすごい曲もオケがちゃんと演奏してくんなきゃ台無しだからな、ってプレッシャーをかけときたいね。


第3章:映画館での苦学の末に
 −交響曲第3番『最初のメーデーの日に』−

それから2年後、俺が23のとき、今度は大学院の修了作品を書く時期になった。次の曲でも新しさを追求したね。2番が27声部のウルトラ対位法だったから、今度は50声部の超ウルトラスーパー対位法に挑戦…って考えるのはすでに全然新しくないね。そんなのは発想が直線的だ。今度はね、対位法の逆、ユニゾンで勝負だ。「ユニゾン」ってのはね、2つ以上のパートが同じ旋律を演奏することなんだ。全くおんなじ高さの音でやることもあれば、音域のちがう楽器がオクターブの開きでやることもある。例えば、カラオケのデュエット曲なんかで、男と女が和音でハモらないで同じメロディーを歌う部分があったりするけど、そういうのを俺らの業界ではユニゾンって言うんだな。そんなのどこがテクニックだと思うかしんないけど、厚い響きを作る場合にはユニゾンは欠かせないテクの一つだよ。

で、俺の新しいユニゾンの話なんだけど、2つや3つのパートでやるんじゃない。これも全オーケストラでやるんだ。ブルックナーからのパクリって言われるかも知れないけど、当時の音学院の教育方針はすごく保守的でね、音大生のくせに俺はブルックナーもマーラーも知らなかったんだ。話を戻すけど、俺の大ユニゾンは、上はピッコロから下はコントラバスまで5オクターブの層になる。で、全オーケストラが同じメロディーをやってるってことは、他の音とのハモりが一切無いってことだ。あるのは延々と続くドラムロールとフレーズの切れ目の大太鼓の一撃。実は1番を書いた頃から言われてたんだけど、打楽器をね、アクセントのための付随的な楽器としてでなく、十分に主役をこなせる旋律楽器として扱うってのも俺の斬新さの一つなんだな。全ての民族は平等だっていう革命スローガンの精神がここにも生きてる、っていうわけでもないけどさ、打楽器が主役になって音楽を進めるっていう発想は、映画館のバイトで身につけたんだと思うな、たぶん。

俺は映画音楽もいっぱい書いたって言ったけど、学生時代、親父が死んで自分で働かなきゃならなくなったとき、俺は映画館でピアノを弾くっていう仕事を始めたんだよ。苦学生だったんだ。これはね、映画の場面々々に合わせてBGMをその場で即興演奏するっていう大変な仕事なんだ。当時はまだ無声映画だったからね。作曲家としてオーケストラの映画音楽を書くようになってからも、場面に合わせて色彩豊かな効果音を使うとか、音楽の流れをめまぐるしく展開させるとかのセンスにかけちゃ、俺はピカイチだよ。3番のもう一つの斬新な仕掛けはね、トップ映画音楽作家ならではのものかも知れないな。

そのもう一つの仕掛けを一言で言うと、3番は「メインテーマが現れない交響曲」なんだ。メインテーマの無い音楽はすでにドビュッシーなんかが書いてたけど、彼はそもそもメインテーマを柱にして音楽を作る交響曲っていう形式そのものを捨てたんだ。雰囲気を中心としたフワフワした感じの、印象派って呼ばれる音楽を書いたんだな。俺のはそういうのとちがって、あくまでもメインテーマを柱にした交響曲にはちがいないんだけど、そして、確かにメインテーマの存在は感じさせるんだけど、最後まで姿を現さないで、テーマの断片だけが細切れに出てくるんだ。それによって、場面がチョコマカ変わっていくっていう感じが出たね。

だから、メインテーマが現れないっていうこと以外は、逆に交響曲の形式を忠実に守ったほうが効果的っていうもんだ。3番は、楽章の数は1コだけど、ちゃんと伝統的な4楽章制の作りになってるんだぜ。速い−遅い−速い−フィナーレってね。そして、自分でそう意識したかどうかは忘れちゃったけど、特にフィナーレに合唱が入ること、合唱の前にトロンボーンの“語り”──こういうのを業界ではレチタティーボって言うんだけどね──それを置いたことなんかは、ベートーヴェンの『第九』に似てるなって思うよ。ちなみに、聞かせ所の大ユニゾンは、3楽章に当たる「速い」の終わりに出てくるから、これもちゃんと聴いてほしいね。

ダスビのホームページによると、この曲のタイトルも日本語でどう表記するかを悩んだんだって? 俺はロシア語で『ピェルバマイスカヤ』、つまり「メーデー」ってタイトリングしたし、日本ではそう表記されてるのが普通だけど、今の日本人が「メーデー」って聞くと、「会社が休み」とか「労働組合の人たちとプラカードを持って公園まで行進」とかみたいな想像をして曲のイメージからは遠くなるから、歌詞の頭から取って『最初のメーデーの日に』って呼ぶことにしたとか。確かに、今のメーデーっていうのはお父さんと家族のお祭っていう感じになってるけど、もともとは、立場の弱い労働者が会社と対等に交渉するために団結しようという運動の一環として始まったんだ。ほら、団結権とか団体交渉権とか争議権とか、社会の時間に習っただろ。メーデーの運動は、そういう労働者の基本権の確立につながったわけだ。俺も、団結して未来を切り開いていく労働者の姿をこの交響曲で書こうと思ったんだ。2番と同じく、革命詩人キルサーノフの詩を使った。でも、俺的には、歴史のウンチクよりも、演奏のほうをしっかり頼むとしか言えないね。


第4章:共産主義の敗北と強者の論理

おっと、つい長々とレクチャーしてしまったな。そろそろ締めに入らないとね。

2番3番を書いた頃ってのはまだソ連に希望を持ってたよ。信じてたって言ってもいい。でも、ソ連が俺たち芸術家に求めたのは、共産主義がいかに優れたイデオロギーかっていうこと、ソ連がいかに理想的な国家で、ロシア民族がいかに優秀かっていうことを芸術作品でPRすることだったんだ。政府が打ち出した「正しい音楽」の条件っていうのがあって、それは「内容において社会主義的。形式において民族主義的」っていうものだった。簡単に言うと、社会主義を賛美する内容で、曲の感じとしては大衆に親しみやすいロシア民謡のようでなければいけないっていうことなんだよ。そして、この条件を満たさない作品は、「内容の無い、表面上の目新しさばかりが耳に突く、まるで西側の堕落した音楽みたいに形式主義に陥った作品」と見なされて、作者共々闇から闇に葬り去られたわけだ。

俺の2番3番は、社会主義の賛美っていう点ではクリアしてたかも知れないけど、大衆に親しみやすい民謡調っていう点では完全にアウトだったね。30になるまで俺は斬新路線で書いてたんだけど、とうとう時の最高指導者スターリンから「人民の敵」って名指しされた。いわゆる「プラウダ批判」っていうつだ。ハッキリ言って命の危険を感じたね。実際、出頭命令が来たんだけど、腹くくって出頭したら、なんと俺を取り調べるはずの担当官自身が別の容疑で逮捕されてて、あっさり帰されたんだ。超ラッキーなんてもんじゃないよ。

今の日本ではピンと来ないかも知れないけど、ちょっと想像してみてほしい。もし、あんた方の周りに、「国民は不況の闇から立ち上がった。痛みに堪えた。小泉総理ありがとう! 自民党万歳! 」っていう合唱付の和風音楽しかなかったら、不気味じゃない? そして、松山千春が反国民的、モーニング娘が形式主義者、宇多田ヒカルが…ってな具合にどんどん逮捕されたら、怖いでしょ? 仮に運良くシャバに戻ってこられたとしてもだ、記者会見では当局が用意したある原稿を読まされるんだよ。「私はこれまで間違った歌を歌ってきました。でも、政府与党の正しい導きによって自分の間違いに気づきました。これからは日本国民の期待に応える歌を歌ってゆく所存です」ってな具合にだ。俺も全国放送のマイクの前でそのテの原稿を読まされたね。そしてね、読んでてふと思ったよ。「俺は、いつだってみんなの期待に応える音楽を書いてきた。だって、聴衆は俺の音楽をあんなに楽しんでくれたじゃないか。そんな俺が、なんで“人民の敵”なんだ? 」ってね。

理想の国家だったはずのソ連も、俺が死んだことになってから10年後に世界地図から消え、世界中で共産主義体制が崩壊していった。2番3番を書いた頃には想像もしなかったね。日本で暮らしてみて俺は思うよ。共産主義の敗北は、すなわち資本主義の勝利なんだろうかって。俺がソ連人として味わった恐怖と──程度は全然ちがうだろうけど──似たような窮屈さをあんた方も味わってるんじゃないかって。どんな政治体制の下でも、どんな社会の中でも、どんなグループの中でも、強い奴にはなかなか逆らえない。その強い奴に気に入られてなんとか守ってもらおうと思えば、自分の本心とは関係なくそいつに賛成しなきゃいけない。だって、自分の言うことが正義で、自分に反対することは正義じゃないから攻撃する、っていうのが強い奴の理屈だからな。

アメリカは「民主主義を守る」っていう正義を持ってて、タリバンは「イスラムの安全を守る」っていう正義を持ってて、その一つ一つはどっちも正しいと思うよ。俺はイスラム教徒じゃないけど、やっぱ自分が身を置いてる環境の安全を守るのは絶対に間違っちゃいないと思う。でも、「戦争はやっちゃいけない」ってことは前の世紀で十分に学習したはずなんだけど、強い奴っていうのはどうしても力で解決したいんだろうな。そういうときの奴らの理屈は、「これは戦争じゃなくて聖戦だ」って言葉の解釈を変えるか、「悪を滅ぼすための戦争はやってもいいんだ」って善悪の境界線をずらすかのどっちかだ。これはスターリンもヒトラーも、東條英機も将介石も、信長も家康も、とにかく武力を行使する際に使ってきた万国共通のテクニックだ。武力行使のときだけじゃないよ。あるルールの枠内で、そのルールを越えるようなことをしたくなったときの常套手段だよ。

でも、アメリカは本当に民主主義を守り、タリバンは本当にイスラムの安全を守ってるんだろうか。世界の人々は、本当に彼らに守ってほしいと思ってるんだろうか。この疑問は、あのとき俺が思ったことと似てる。「聴衆は本当に、ソ連政府に俺の音楽を禁止してほしいと思ってるんだろうか。そして、全てのロシア人、世界中の労働者や少数民族の人たちは、本当にソ連に守ってほしいと思ってるんだろうか」って。


第5章:国家と祖国

ソ連の崩壊で俺の故郷はまたまた名前を変えて、サンクト=ペテルスブルクになった。革命前のペテログラードをドイツ語読みにしたんだ。要するに「ピョートル大帝の城」に戻ったってわけだ。

まぁ、何語で読もうが、誰の城だろうが、そんなことはどうでもいいさ。俺の大切な故郷を廃墟にさえしなければね。そして、帝政だろうがソ連だろうがロシア連邦だろうが、ロシアの大地が俺の祖国であり続けることには変わりはない。

そろそろ「塩下幸一」にも飽きてきたことだし、今度こそロシアの大地に帰って眠ろうかな。そうそう、アイツも誘って一緒に帰ろうと思って面会に行ったら、最近は日本も物騒だから銃刀法違反でもなかなか執行猶予が取れないんだって、弁護士が言ってたな。ま、日本のことは日本人が考えればいいさ。


後記:2月11日、帰郷の前に…

ロシアに戻る前にだ、ここに寄ってかなきゃね。芸劇。なんか妙な気分だな。ケツの辺りがこそばゆいような。結構客入ってんじゃん。ま、俺の曲のコンサートだから当然だけどね。お、メンバーが舞台に出てきた。みんなシケた面してんなぁ。女性はきれいだけど。チケット送ってくれたH谷さんてどの人だ? 若い頃の俺がスターリンの肖像を破って飛び出すっていう面白いチラシを作ったY田さんとM上さんは? ん、ラッパに1人だけ男前がいるぞ。アレが団長様か。よぉ団長さん、おそらく君は団の中で一番強い立場にいるんだろうけど、もしかしたら、君のことが怖くて反対できないでいる団員も結構いるんじゃないか?

…ま、ちゃんと演奏さえしてくれればどうでもいいよ。じゃないと、安心して眠れないからね、俺的にはさ。


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