交響曲第1番 ヘ短調 作品10


 青年は、大晦日の晩にこんな夢を見た。砂漠を歩いていると、突然一人の老人が現れ、青年にこう語った。「この一年は、お前にとって幸運な一年となるであろう。」

 ショスタコーヴィチが青春時代を送った1920年代中期以降のソヴィエト連邦は、ロシア革命後の内乱が終結したこと、またスターリン独裁・大粛清期に挟まれていることもあって、一般にソヴィエト連邦のつかぬまの幸福な時期であると捉えられることが多い。その時期は、都市部に於いては後にロシア・アヴァンギャルドと呼ばれることとなる新しい芸術の流れが興隆を見せていたこと、またソヴィエト連邦が生んだ最高の芸術家の一人、ショスタコーヴィチがやはり幸福な青年時代を送った時期でもあった。この時代、後の時代にはないある種の幸福な感覚が社会にみなぎっていたのは事実であろう。
 だが、それは都市部に限ってのことであった。農村部では状況は悲惨を極めようとしていた。都市部の食糧危機を回避するため、農村には食糧調達隊が派遣された。食料調達隊は農村から苛烈に穀物を奪い、農村には次の時期の播種のための種子さえ残っていない状態であった。これらの行動は「富農」絶滅のためとして正当化される。勿論農村では餓死者が激増し、人肉食もしばしば見られるようになったという。また、当然そのような中央からの行動に対して武力を伴った反乱活動も盛んに行われたのだったが、それらもまた苛烈かつ容赦ない武力によって弾圧されたのであった。これらの武力弾圧で一番有名なものはトゥハチェフスキーによるものであろう。トゥハチェフスキーはタムボフ県における農民反乱を鎮圧する際、毒ガスを使用している。女性・老人・子供といった非戦闘員に対してそれらを使用することに何の躊躇も見せていない。トゥハチェフスキーの作戦は苛烈極まるものであったという。もしトゥハチェフスキーが現在のイラクに派遣されていたならば、既にイラクは平定されていたに違いない。現在とは比較にならない人数の非戦闘員の死者と共に。
 ショスタコーヴィチが幸福な青年時代を送ったのは、こんな時代のことである。その時、ショスタコーヴィチは青春時代を迎えていた。人がその人生の中で唯一、自分にとって大事なことが他の人にとっても同じように大事であると、また自分が世界の中心にいるという錯覚を抱いても許される年頃のことであった。

 ショスタコーヴィチが、その交響曲第1番を完成させたのは1925年7月1日、19歳となる年のことであった。この時のショスタコーヴィチは、既にいっぱしの苦労人であった。しかし、ここではそれを述べずに時を少し遡ることにしよう。1922年2月、ショスタコーヴィチの父親が死んだ。母親は一家を養うために働きに出る。3人の子供を育て上げなくてはならないのだ。悲しみに暮れている暇はない。2番目の子供であるドミートリイはペトログラード音楽院に学ぶ学生であった。ピアノと作曲の複数専攻。入学する以前から、その才能を刮目された天才少年であった。そんな天才少年の家庭を不幸が襲う。自分も働くという少年の言葉を、母親とそして姉も頑として聞き入れなかった。何としてでも、この才能は大切に育て上げなければならない。自分らの都合でこの才能を枯れさせるようなことをしては絶対にならないのだ、と。
 しかし、少年ミーチャ(ドミートリイの愛称)の不幸はこれだけに終わらない。何か首が痛い。診断の結果は結核であった。気管支とリンパ節の結核。手術後の包帯を首に巻いた姿で卒業試験の公開演奏会に臨む。個性的なショスタコーヴィチの演奏は、教授陣全員の評価を得ることは出来なかった。そんなショスタコーヴィチに最高点を与えたのが、音楽院入学以前からショスタコーヴィチに強い支持と支援を惜しまなかったグラズノフであった。ショスタコーヴィチはピアノ科を無事修了する。その直後の1923年7月、ショスタコーヴィチは姉に付き添われ温暖なクリミアに療養へ出かける。ピアノも家財も売り払ってもまだ足りない。借金をしての、療養だった。
 多感な少年が過敏な年頃に、これは状況もあるから仕方は無いのだけれども、いささか過保護な母親から離れて、それまでとは一変した穏やかな環境の中で自由に過ごす。人間、不幸だけが続くことなどそうは無い。久しぶりの休息感を少年は感じたことであろう。そして、そこで少年は一人の少女と出会い、恋に、落ちる。

 ショスタコーヴィチの交響曲第1番の大きな特徴の一つに、ピアノに大きな比重が与えられていることがある。ショスタコーヴィチの他の交響曲でピアノが使用されているのには5番や7番があるが、ここでの使い方は低音楽器と共に使用し、輪郭が曖昧になりがちなこれらの楽器の音をクリアにするというものである。1番の使用法はこれとは全く異なり、その出番に限っていえば、極めてソリスティックな音楽が与えられているのだ。このようなソロ的なピアノを伴う管弦楽作品は、他にストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》(1911年作曲)がある。ショスタコーヴィチは早い時期からストラヴィンスキーに熱中していた。《春の祭典》は狙いすぎと感じてあまり好きになれなかったが、《ペトルーシュカ》には鮮烈な印象を感じている。ピアノが活躍するのは第2楽章であることも、両者は共通している。
 交響曲第1番は4つの楽章からなり、形式的には古典的なスタイルを遵守している。だが、その感触は古典的な交響曲のスタイルとは些か趣を異にしている。ピアノの活躍もそうだし、風変わりなトランペットによる導入もそうだろう。交響曲第1番を作曲した頃、ショスタコーヴィチは作曲家として身を立てようとは考えていなかった。もちろん、ベートーヴェン以来の交響曲の伝統を担うという(大胆な)意識は、まだ持ち合わせていない。(この意識のもとに最初に書かれた最初の交響曲が、第4番である。)この第1番が第4番以降とその手触りを異にしているのは、そのためだろうか。後年のショスタコーヴィチの創作には様々な制約が存在していた。政治的なものもそうだし、音楽的なものもまた然り。この第1番は、それらの制約をまだ意識することなく書きたいものを書きたいように書き、そしてそれが大喝采を持って迎えられた幸福な作品であった。


第1楽章
アレグレット―アレグロ・ノン・トロッポ
 導入部が設けられているのだが、これがまた少し不思議な感触。弱音器付きのトランペットのソロによる開始。それはファンファーレといった類のものではない。そのトランペットにファゴットがどこかしらコミカルにからみ、そしてクラリネットが突然登場。ファンファーレや大音量といったものでは無く、不思議な存在感で音楽は始まる。そして聴衆は、いつの間にかショスタコーヴィチ・ワールドに連れ込まれてしまう。この導入も、それまでの誰の交響曲にもあまり類を見なかったものだし、また、ショスタコーヴィチの後年の他の交響曲の威圧感を感じさせる開始とも、また異なっている。
 主部は低弦の規則的な行進に乗ってクラリネットが、またどこかコミカルに歌う。ショスタコーヴィチの旋律特有の、どこか場違いで皮肉っぽい調子は既にここから現れている。その後、ワルツなどを経て(ワルツもショスタコーヴィチがその生涯好んで使い続けたものだ)、金管や打楽器が加わったクライマックスに到達するのだが、その道筋は後年のそれと比べるといささか素っ気ない。その数カ所有るクライマックス自体も、何やら耽溺することを避けるような気配。少し、物足り無い。(これは後年の作品と比較してしまうからそう思えるだけなのだろうか。)しかしこの辺りなどは、「そんなことは良いからさっさと先に行こうよ」と常套的なものを避けるショスタコーヴィチの姿が思い浮かぶような気がする。全体的にオーケストレーションが薄いのも後年の作品とは異なる点。弦楽器で何本ものソロが必要とされる箇所があるが、それは最も顕著な例かもしれない。
 コーダを経て、第1楽章は静かに、また素っ気なく終わる。どこか思わせぶりだったり、屈託を抱えていたりといった「大人の身振り」には関心がないかのような、終わり方。

第2楽章 アレグロ
 ショスタコーヴィチは4つの楽章の中で、まずこの第2楽章を先に完成させた。生き生きとした音楽の躍動は、青年ショスタコーヴィチの頭から、我先にと飛び出してきたかのようである。
 スケルツォの役割を持つ。低弦の衝撃的な、でも短い導入の後にクラリネット登場。またクラリネットだー!でもこれは前振り。そう、この楽章の主役、ピアノの登場。出番は一瞬だがアクロバティックな匂いを感じさせるピアノは、音の中で鮮やかな印象を残す。そしてトリオへ。どこか幻想的な感じを与える第2ヴァイオリンの刻みの音に乗って、木管楽器が旋律をカノン風に音楽を繋げていく。そしてトリオを終えて主部に戻るが、暫くテンポはトリオのもので、まだ遅いまま。ファゴットがのろのろとしていると、ピアノがそれを「早くしなさいよ!」と言いながら(いや言ってませんが)急きたてる。ピアノに追われるようにして、音楽は最初の速いテンポに戻っていく。そしてピアノを除く全ての楽器による大音響の後、一瞬の静寂。そしてピアノが最強音で打鍵を打ち鳴らす。この辺りはもう大胆極まりない音楽の姿である。ミーチャ、してやったり。三度ピアノの打鍵が続くとトリオの音楽が戻り、またどこか幻想的な余韻の中で、この楽章も再び静かに終わる。

 クリミアでショスタコーヴィチが恋をした少女の名は、タチヤナ・グリヴェンコ。ミーチャと同い年の、可愛らしい女の子。二人がお互いの気持ちを確認するまでには、あまり長い時間がかからなかったようである。若く、瑞々しい恋。「愛は自由」。ショスタコーヴィチはこのクリミア滞在時に母への手紙の中で、そんな言葉を使っている。幸福感と高揚感に包まれた青年にとっては―もう少年では無く―、愛し合う二人を遮るものは存在しない、という気分だったかもしれない。
 しかし、現実はそうでは無かった。ミーチャとターニャ(タチアナの愛称)の二人に立ち塞がったのは、ソフィア。その女性こそ、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの母親その人であった。

第3楽章 レント
 ゆっくりとしたテンポの楽章。4楽章形式の交響曲で3楽章以降に緩徐楽章を持ってくるのはベートーヴェンの第9交響曲が先達となる。しかしブルックナーは8番目の交響曲でやっと3楽章を緩徐楽章にした。ブラームスには例がない。4楽章形式の交響曲に於いて、3楽章に緩徐楽章を置くのは多少イレギュラーな装いであるかもしれない。その装いを、ショスタコーヴィチは既に最初の交響曲で身にまとった。その結果、音楽は一気に瞑想的な雰囲気を帯びるようになる。
 音楽はオーボエのソロから始まり、チェロのソロがそれに答える。どこかワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を思わせる旋律。不安と憧れ、恐れと喜び。ショスタコーヴィチのワーグナーへの傾倒は、ショスタコーヴィチの最後の交響曲である第15番にも現れている。音楽はうねりの中で高まりを見せる。その中で、トランペットのまるで呼びかけるかのような音形が聞こえてくる。その後、その呼びかけは楽器を変えながらも執拗に何度も繰り返され、それはこの楽章の最後まで続く。最後のこの呼びかけが遠くに消え去った後、小太鼓の音が聞こえてくる。最初は遠くにあった小太鼓の音がすぐに目の前にまで迫る。その小太鼓に乱暴に押されるかのように、音楽は途切れることなく次の第4楽章へ。

 避暑の季節が過ぎ、ドミートリイ・ショスタコーヴィチとタチヤナ・グリヴェンコの二人ともクリミアを去る。しかし二人は文通を続けた。長距離恋愛、身近にいる異性の存在、そしてショスタコーヴィチの母親の干渉。それらのものを排して、二人は愛を育み続ける。その間に、ショスタコーヴィチは交響曲の作曲を開始し始めた。ピアノ科を修了した後も、レニングラード音楽院(この頃には、既に街の名前がペトログラードからレニングラードに変わっていた)で勉強を続けていた。学び続けていたのは、作曲であった。
 ショスタコーヴィチが交響曲第1番の作曲を開始した時期は、諸説あるが概ね1923年か24年のことのようだ。この頃の教師に作品を見せたショスタコーヴィチはこんなことを言われている。「三十代になったら、このような荒涼とした音楽を作らなくなることを願っている。」作曲は順調に進んだが、途中思わぬ問題に遭遇することとなる。1924年秋から、ショスタコーヴィチは映画館の伴奏ピアニストの仕事を始めた。もちろん家計の足しにするためであり、クリミアの療養費を返済するためであったのだが、母親からの束縛から少しでも逃れようとしたもあるかもしれない。最初はなんてことは無いと感じていた仕事だったが、それは大きな間違いで、ショスタコーヴィチは次第にこの仕事に大きなストレスを感じるようになる。仕事は単調のくせにきつい、自由な時間がぐっと減って好きな演奏会にも行けなくなる・・・。それもこれも金のため、か。この頃のショスタコーヴィチは、もう既にいっぱしの苦労人であった。
 日々の仕事に追われるというのは如何に苦しいことか。作曲の意欲も湧かない。1925年1月の中頃までには第3楽章まで書き上げたのだが、そこでパタッと作曲のペンが止まってしまう。仕事の疲労がピークに達したのだ。しかしトラブルはまだ終わらない。あろうことか苦労して働いた映画館から給与未払いをくらったのである。ショスタコーヴィチは裁判に持ち込まざるを得なかった。3月になって、ショスタコーヴィチは気分転換も兼ねたのか、モスクワに出かけることにする。そこはまた、ターニャの住む街でもあった。
 モスクワでショスタコーヴィチは多くの新しい知り合いを得た。トゥハチェフスキーと知り合ったのもこの時である。ショスタコーヴィチはモスクワに移り住むことを考える。トゥハチェフスキーも力を貸してくれるという。モスクワ移住の話は約1年前にも持ち上がっていたのだが、この時は母ソフィアの反対で実現されなかった。独り立ちにはまだ早い・健康が心配、というのがその理由であった。ターニャのこともその反対理由にあったのかは、定かではない。(この時の移住話も、結局は実現されることはなかった。)
 とりあえずショスタコーヴィチはレニングラードに戻り、そこで4楽章の作曲を開始する。友人の一人が深刻な病に罹り、悲しみを感じながらの作曲であった。その悲しみに影響されて4楽章が重苦しいものになったとショスタコーヴィチは感じていた。が、その悲しみとは裏腹にショスタコーヴィチの創作意欲は高まる。1週間もかけず、ピアノ・スケッチが完成。オーケストラ・スコアの清書譜を書き上げたのは、7月1日のことであった。
 さて書き上げたはいいが、演奏はどうしよう。どう頑張っても学生オケが演奏してくれる程度だよなー、とショスタコーヴィチは落ち込む。いや、そんなことではいかんのだ!ミーチャ、一念発起。持ち込みを開始する。持ち込んだ先は名門レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者、ニコライ・マルコ。スコアを見たマルコはこの曲を演奏することを約束する。あっけないものであった。おまけに、楽譜の印刷代も音楽院が負担することになる。ショスタコーヴィチの運命が、その才能に見合うものとして、ようやくショスタコーヴィチの目の前に広がり始めたのだった。

第4楽章 
レント―アレグロ・モルト―アダージョ―プレスト
 テンポも曲想も目まぐるしく変わっていく。小太鼓から導かれた序奏部はゆっくりしたテンポ。緊張が高まる。そして主部。アレグロのテンポで音楽は疾走していく。ピアノも加わりアクロバティックに展開されながらクライマックスに向かっていくが、しかしそれは中断を余儀なくされてしまう。ヴァイオリンのソロ、3楽章を回想するかのような瞑想的な雰囲気。しかしまた再び音楽は緊張を
取り戻し、さらなる高みに向かっていく。そしてその頂点で現れたのは、ティンパニのソロであった。
 クライマックスの決め所をオーケストラの大群衆ではなく、ただ一人のティンパニ奏者によって演じさせる。恐ろしささえ感じさせる青年ショスタコーヴィチの大胆さ。すました横顔に透けて見えるのは何なのか。3楽章で何度も登場した呼びかけがティンパニによって大音量で鳴らされる。しかし、ここでのそれは力強さを感じさせ、もう呼びかけではない。それは答えとなっているのだ。(4楽章のこのモチーフは、3楽章のモチーフのちょうど反転形となっている。)チェロのソロが登場。そこで歌われるのは悩みか憧れか、またはもっと別のものなのか。音楽は悩ましげなまま一気に熱を帯び、最後のクライマックスであるコーダに向けて突き進む。

 5月12日、その日をショスタコーヴィチは終生、記念日として祝い続けたという。ショスタコーヴィチの一生は毀誉褒貶の激しいものであった。その中でこの交響曲第1番は、初演当時から一貫した好意的な評価を保ち続け、ショスタコーヴィチ本人とその他の作品が不遇の時を過ごしている間でも、多くの演奏会で頻繁に取りあげられた幸福な作品であった。その幸福な作品が初演されたのが、1926年5月12日であった。
 初演の時のショスタコーヴィチは、リハーサルの時から上機嫌だった。マルコの指揮とレニングラード・フィルの演奏は申し分無しで、本番では第2楽章がアンコールされた。19歳の作曲家は大歓声でもって迎えられる。この様子は現代のモーツァルトの誕生と評されたが、これは決してそのようなものではない。モーツァルトとは全く別の個性を持った、そして同じくらいの偉大な存在であるショスタコーヴィチという20世紀を代表する芸術家の、華々しいデビューの瞬間その時であったのだ。レニングラードにおける初演の後、ソヴィエト国外に於いても有名指揮者が次々とこの曲を取りあげる。ブルーノ・ワルター、レオポルド・ストコフスキー、アルトゥーロ・トスカニーニ。新ウィーン楽派の作曲家ベルクはショスタコーヴィチに賞賛の手紙を送る。作曲家として、これ以上はない幸福に包まれたデビューであった。
 この年の夏、ショスタコーヴィチはクリミアに赴く。そこには愛するターニャがいた。この時のショスタコーヴィチの脳裏には、この前の大晦日の晩に見た夢に出てきた不思議な老人の言葉が響いていたかもしれない。「この一年は、お前にとって幸運な一年となるであろう。」

 しかし、その言葉は、これ以降の人生は苦難の連続だということをも意味していたのだろうか。この年の末となる12月下旬、ショスタコーヴィチはマルクス主義の試験を受けなければならなくなった。音楽院のカリキュラムに於いて、院生は新たにマルクス主義が課題として課せられたのである。一度聞いただけの複雑なピアノ・ソナタを一つの音も間違うことなく演奏することの出来たショスタコーヴィチであったが、これらのことはどうやら不得意であったらしい。(というよりも、それ以前にやる気がなかったようだ。)不真面目な態度で受けた試験を一度は落第、再試験の結果、何とか合格となる。しかしこの後、この苦しみが正に何百倍もの過酷さでもってショスタコーヴィチの生涯に襲い続けることになる。
 青年ショスタコーヴィチは真面目なマルクス主義者ではなかったが、レーニンには敬意を抱いていたし、革命の理念そのものにも賛同を表していた。時事問題にも関心を持ち、当時の政治状勢をタチヤナ・グリヴェンコと語り合うようなことをしている。だがそれらはどこまで真摯なものだったのだろう。先の試験が不合格だった理由は、社会学的・経済学的見地からショパンとリストの作品の違いを述べよ、という問題に対する級友の答えに笑い転げたためであった。今となっては、この級友を笑ったショスタコーヴィチを多くの人が正しいと言うかもしれない。しかし、気紛れな歴史の天使は、この笑い転げた青年をどうやらこらしめてやろうと考えたようだ。後年、ショスタコーヴィチは―まるでこの時のつけを支払わされるかのように―、ロシアの歴史とソヴィエトという国家、そして時代そのものを一身に体現した人物との対決を迫られるようになる。鋼鉄の人。そして、それはショスタコーヴィチの人生の中で、最も苛烈で凄惨な日々の記憶となる。

 ショスタコーヴィチはタチヤナ・グリヴェンコと結婚することは無かった。母ソフィアとの折り合いをつけることが出来なかったためである。グリヴェンコと深く愛し合っている最中に於いても、結婚という言葉を避け続けたショスタコーヴィチであったが、1929年にグリヴェンコが他の男性と結婚するに及んで、夫と別れて自分と一緒になるよう彼女を説得している。ショスタコーヴィチが諦めたのは、1932年にグリヴェンコが母となった時のことであった。そしてこの年、ショスタコーヴィチはグリヴェンコとはまた別の女性との結婚を果たしている。
 世の中には、どんなに願っても叶えられないことがあり、諦めなければならないことがある―そんな事実を受け入れることは、若い時に華々しい成功を収めた人間にとって、人一倍苦しいことだったかもしれない。しかし、ショスタコーヴィチはそれを受け入れた。受け入れざるを得なかったのである。そして、ショスタコーヴィチの苦渋に満ちた人生が始まる。

 音楽はティンパニの強靱な一発を合図とするようにコーダに突入。圧倒的に吹き鳴らされる金管楽器、炸裂する打楽器。それは紛れもなくショスタコーヴィチの音楽そのものだ。しかしそれは威圧感を感じさせる間も無く一気に全曲の終結へと疾走する。それは果たして未来への疾走なのか。
 才能と希望に満ちあふれた青年は何を急ぐのだろう。その先に待っているものが何かも知らないというのに。いや、そのようなことは問題ではない。彼は、急ぐのだ。走る。若者だけに許された特権でもって。そんな印象を与えるかのような終わり方、全曲の終了。そして、ここから先、ショスタコーヴィチの本当の人生が始まりを告げる。その先にあるものを、この当時のショスタコーヴィチは勿論知る由も無い。

(なかたれな)