劇伴オーケストラのための組曲
(ジャズ組曲第2番)


 歴史にもしを問うことは、私はあまり好きではありません。どうも建設的な行為には思えないのです。ですが、今回はあえてそれを問うてみたいと思います。もし、ショスタコーヴィチがソヴィエト連邦以外の、西側の国家に生を受けていたならば、彼はどんな一生を送ったでしょう。現在のような作曲家としての揺るぎない名声を勝ち得ることが出来たのでしょうか。いや、それよりも、ショスタコーヴィチはそこで幸多い一生を送ることが出来たでしょうか。

 ショスタコーヴィチはその生涯において映画のための音楽をかなりの数作曲しています。だけど、それらはショスタコーヴィチにとってあまり楽しい仕事ではなかったようでした。折に触れてそのようなことを述べているし、実際、プラウダ批判やジダーノフ批判などで生活に窮した時、映画音楽の作曲で正に食いつなげるという状況を幾度か体験しています。また、音楽家として駆け出しの頃、映画館の劇伴のピアニストとして神経をすり減らしたことも、あまり良い記憶ではないようです。
 ただ、それらのことを別にして、ショスタコーヴィチの映画音楽には優れたものが多いと思います。印象に残るメロディ、効果的な展開、何より聴いていて楽しいものが意外に多いんですよ。ワルツ、ポルカといったダンス・ミュージックの数々。主に映画音楽から、他にもバレエなどから、そんな飛び切りに楽しい音楽だけを集めたのが、今回演奏するこの《劇伴オーケストラのための組曲》です。

 劇伴オーケストラとは聞き慣れない言葉ですが、これは今回私たちの意訳で、ロシア語の直訳だとステージ・オーケストラという言葉になるようです。(多くの日本語訳もこちらの言葉の方が多く使われています。)例えばテレビで歌謡曲のステージを見ると、歌手の後ろにオーケストラが控えている風景をよく見かけませんか。そういうオーケストラのことを指して、ショスタコーヴィチはステージ・オーケストラとしたようです。もしくはスタジオにこもって映画やテレビのテーマ音楽を演奏するオーケストラ。ステージからは離れますが、意味合いとしてはこんなところが近いんじゃないかと思います。これに対する呼び名はシンフォニック・オーケストラとでもなるのかもしれませんが、この呼び名・呼び分けはあまり一般的には聞きません。実際の奏者の区分がさほど厳密ではないこともあるし、あまり必要性のある区分けではないからかもしれません。

 この《劇伴オーケストラのための組曲》は、最近まで《ジャズ組曲第2番》と呼ばれていました。これは、本来の《ジャズ組曲第2番》の譜面が紛失し、存在が音としても確認できなかったために起こった混乱であると思われます。(本来の《ジャズ組曲第2番》は1938年の作曲。近年ピアノ用のスケッチが発見され、それに基づいた管弦楽編曲がなされました。)《劇伴オーケストラのための組曲》の作曲は1950年代中頃、スターリン死後、雪解けが始まった頃のようです。譜面はショスタコーヴィチの自筆に基づくもの。近年活動を開始したDSCH出版社がスコアを出版して広く知られるようになったようで、この頃からレコーディングも増えた感じです。(ただ、CDの解説で《ジャズ組曲第2番》と誤って紹介されるものがあります。よくないですね、ぷんぷん。)

 この曲をお聴きになって、「ショスタコーヴィチがこんな明るい、楽しい曲を書くことが出来たのか」と驚く方も少なくないのではと思います。(かくいう私も、最初聞いた時はとても驚きました。)ショスタコーヴィチは、かなり几帳面で神経質、せわしなく落ち着きが無く、近くにいると何かしらの緊張を強いられるという人だったようです。ただそれは堅苦しいというのとは別で、くつろいだ時・心許した相手にはかなりの冗談も飛ばす、楽しい一面もしっかりと併せ持った人でした。何が楽しいか・素敵なことか、そういうものがはっきりと分かった人だったのです。
 そして何よりも、ショスタコーヴィチは音楽にかけては正に天才といってよい人でした。音楽界にデビューした頃はモーツァルトの再来と呼ばれたショスタコーヴィチでしたが、ショスタコーヴィチの見せた才能は、正にそう形容するのがふさわしいものだったのです。その才能それ自体は、晩年まで枯渇することがありませんでした。
 そのような人が、楽しい音楽を書こうと思って書いた曲なのです。楽しくないはずがありません。(むしろ、私にはこんな楽しい曲を書けた人が、交響曲などではあそこまでの音楽を書いたこと、そのことに慄然とせずにはいられないのです。)確かに、ショスタコーヴィチは気が進まない状況下でこれらの曲を書いたのかもしれません。たとえそうであっても(いや、もしかしたらそうであるから
こそ)、これらの曲の楽しさは変わらないのです。

 《劇伴オーケストラのための組曲》は全8曲からなります。1曲1曲にはそれぞれショスタコーヴィチの自作の引用元の曲があるのですが、それらをいちいち列挙することも、1曲1曲の解説を行うことも、あえて今回この場では行いません。(ひょっとしたら2曲目の軽快なメロディーは、前回のコンサートに足を運んで頂いた方には聞き覚えがあるかもしれません。この曲、私の大好きな曲です。聴きながら、演奏しながらでもつい涙がにじんでしまいます。)今日皆様には、この楽しい、愉快な心躍る音楽に、素直に心踊らせて頂ければと思います。

 ショスタコーヴィチが戦後の西側において活動していたらどうだったでしょう。最初に一つ押さえなくてはならないのが、ショスタコーヴィチはソヴィエト連邦という西側の流れとは隔離された環境にいたことで、無調・12音・セリー主義や偶然性の音楽といった、このころの西側の多くのクラシックの作曲家が唱え続けた「前衛」といったものから遠い位置にいられたことです。これらのものをショスタコーヴィチはあまり好きではなかったようですが、それは西側にいたとしてもあまり変わらなかっただろうと思います。
 ただ、ショスタコーヴィチと親交があったブリテンのように、前衛に依らずとも音楽界で確固とした地位を確立した例があります。ショスタコーヴィチも、恐らくそんな感じで活動を進めることができたのではないでしょうか。
 それに、私は思うのです。日本にかって武満徹という人がいました。彼に関する回想で印象深いのが、若い時から宇宙人としか思えないような不思議な人だった、というものです。やはり繊細な、どこか浮世離れした人だったようです。残\された音楽からも、それは窺うことが出来ます。しかしその一方で、武満はポップスに素敵な曲を少なからず残しています。そう、武満も繊細で気難しい、というだけの人ではなかったのです。そんな武に生まれていたとしても、案外上手くやっていたかもしれないと思うのです。やっぱり顰めっ面の音楽を書きながらも、その合間に心温まるような音楽を書いて、人々を楽しませていたのではないでしょうか。

 もしショスタコーヴィチが日本で生まれ、そしてもう少し長生きしたならば、金曜の夜にテレビで、友人として楽しく筑紫さんと話をする姿を見ることが出来たかもしれません。我ながら、埒も無いことを、と呆れてしまいます。でも、歴史にもしがあるならば、そしてそれを問うことが許されるならば。私は、ふとそんなことを考えてしまうのです。

(なかたれな)